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桜舞

            Bako・・・可愛い孫たちが付けてくれた愛称。 ちなみに孫たちは[Bakoちゃん]と呼ぶ。  雅号は「水絵」!!風の吹くまま気の向くままに―

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玉音放送

  1. 2006/08/15(火) 12:20:46|
  2. ■思い出の糸をつむいで
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61年前の今日 日本は戦争に負けた。

その日も暑い日だった。
「12時に天皇陛下の大事な放送があるから 正座して賜るように」学校からの通達。
ラジオのない人は学校に集合せよ。
(家はたまたま有ったけど田舎で大半以上は無かった)
その日は朝から空襲警報も出ずB29も飛ばずやけに静かだった。

近所の人も集まって陛下のお言葉を待つ。

「朕おもうに・・・・」
雑音まじりでとぎれとぎれ・・言葉は難しく9才の私には何がなんだか分からないが周囲の大人達の様子から只ならぬ事態で有ることは察知できた。

そのうちみんながすすり泣き始めた。
正座して体中 耳にして聞いていたが理解出来ず、横で泣いている母に聞いた。
「戦争に負けた・・・」一言いうと私を抱きしめた。
(日本は絶対勝つって先生云ったのに・・撃ちてし止まんと・・)
思いがけない展開に私もつられるように泣いた。
心底 泣いた。なんであんなに泣いたんだろう。
涙でまわりの景色がかげろうのように揺らめいていたのを今でもはっきり覚えている。

伯父は職業軍人で大尉・父は海軍の軍医・兄は熊本幼年学校在学中。
軍国一家であった。

このような一家のその後など考えもしない私は泣きながら(兄ちゃん・・どうなったやろう?・・)

6ッ違いの兄は熊幼の2年生。
2週間前 前線への出撃命令がくだり休暇が出たと帰って来て家族で最後の記念写真(写真屋さんが来た)を撮りそれこそ水盃で別れたのだった。
そんな訳など分からない私は、久しぶりに兄に会えて只はしゃいでいた。

気丈な母は涙ひとつ見せなかったが、今 親の立場で思うに私だったら平静に送り出せただろうか・・
促されて「お国の為に頑張って下さい」
私の他人行儀な挨拶に挙手の礼で答え凛々しく行った兄。

子供の私からはもう立派な兵隊さんだったけど、まだ15才今の中学生だ。

その後まだ国内で待機中であった兄は無事帰った来た。

20060815121508.jpg
『自分はお国の為に散る覚悟であります』


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私の忘れた物

  1. 2006/08/20(日) 23:20:45|
  2. ■思い出の糸をつむいで
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小さい時の友達はみんな男の子だった。
その頃よく遊んで泣かしていたヒロちゃんは 後年出会ったら『般若のヒロ』との二つ名を持つコワイお兄さんになっていた。
「見せてみ・・」
般若の彫り物が赤い口を開けていた。

当時の遊びは戦争ごっこで 棒を振り回して野山を駆け回っていた。
ひとつ困った事が・・
みんなのように立っておしっこが出来ないのである。
幾度もこころみたがうまく出来ない。
あかぶった~」(おもらし)
と泣いて帰る羽目になる。

犬のようにすれば良いのかと電柱に片足掛けてやってみたが結果は
あかぶった~

「この子はおちんちん忘れて産まれてきた」
周囲の言葉を思い出した。

あっ 忘れ物・・・
近くの産婆さんの家に走った。

「おちんちんとりにきたぁ!!」
「今 ないから今度“だんご汁”するとき呼ぶけん」
(だんご汁は大分の郷土料理で小麦粉を捏ねてのばした物。お汁に入れるとだんご汁で、ゆがいて黄粉をまぶすと“やせうま”になる)

数日後、産婆さんからお呼びが掛かり喜び勇んで行くと形はそれらしき物がずらりと並んでいる。
「ハイッ どれでも好きなの付けたげる」
「お風呂に入ったら~・・・?」 
「溶けるやろなぁ。でも又作って上げるわ」と笑う。

パンツにかけた手が止まった。

とけるおちんちんなんか いらんわいっ

二度と産婆さん所に忘れ物をとりに行く事は無かった。



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貴様ぁ~!

  1. 2006/08/24(木) 23:38:43|
  2. ■思い出の糸をつむいで
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父方の祖父は“万次郎”
跡をとっていたのは兄である伯父“観三郎”
陸軍大尉で第11師団 第22松山連隊の連隊長だった。

白壁に囲まれた武家屋敷みたいな平屋で大きな古い家だった。
同じ敷地内に分家の父の家。
父の家は二階建てで二階はアトリエになっていた。
伯母は母の姉で・・・つまり兄弟・姉妹どおしが夫婦なのである。

朝は馬丁が馬を引き「大尉殿 お迎えに参りましたっ」
上がり框にどっかと腰をおろすと二人がかりで長靴(ちょうか)を履かす。
連隊への往復は馬であった。

体格が良く八の字髭をたくわえ眼光鋭い伯父にみんなびりびりして伯母さえ伯父の一挙一動におろおろしていたようだ。

ある日、床の間の刀掛けに軍刀が掛けてあり幸い誰も見ていない。
常日頃気になってしかたのない刀だった。
棒きれでは無く本物を振り回して見たかったのだ。
きれいな紐をちょっと引っ張ったらはずれた。
重くて持てなかったので、その紐をひょいと肩に掛け八畳の座敷を「♪トテチテタァ~♪」

いつの間にか鞘が抜け抜き身を担いで走り回っていた。

きさまぁ~軍人の魂をなんと心得とるっ

大音声が響いた!

目ん玉を引きむいて烈火の如く鬼の形相で伯父が立っていた。
刀をほっくり投げて家に逃げ帰った。
悪代官の前の小作人みたいに這い蹲っている伯母と母の横をすり抜けて・・・・
畳には私の走った軌跡がくっきり切れて残っていた。

その後の決着がどうなったかは知らないが恐い物知らずの私も、それからは 伯父ではなく 軍刀には一目おいた。

この家屋敷も昭和20年7月26日の松山空襲で土塀の一部を残すのみで跡形も無く焼け落ちた。

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♪どうしても気になる♪

  1. 2006/08/27(日) 13:54:09|
  2. ■思い出の糸をつむいで
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最近どうしても気になる曲が有った。
店のBGMで『インザムード』が流れるのである。
何かの曲にフレーズが使われているようだ。
「グレンミラーのインザムードが・・」
“すー”も“マサゴン”も誰も分からない。

私は今の曲も歌手も知らない。
音痴の私のハミングではわかろうはずもなく・・

ああでもない こうでもないと云って居る時



「あ~ミヒマルや・・」 と “すー”
「ミヒマル~??」
「でもインザムード使われとるよな?」
「・・?・・・?」

mihimaru GTの『いつまでも響くこのmelody』

携帯で確認してみる。
確かにそう。。。

  ----*----*----*----*----*----*----*----*
『グレンミラー物語』
ジュエームズ・スチュワートとジューン・アリスン
トロンボーンを演奏するグレンミラー。
ちょっと首をかしげるようにして吹く姿。
決してサックスやペットのように派手な楽器では無いのに存在感あふれる演奏。
全編に流れる『チャタヌーガチューチュー』
『インザムード』『茶色の小瓶』
『ムーンナイトセレナーデ』『真珠の首飾り』

エピソードと共に流れる名曲の数々。
曲を聴くとそのシーンを思い出す。

50数年前。
高校時代『映画部』で映画館は全部フリーパスだった。
映画は学校が許可したものしか自由に観に行けなかった時代。
高校生が見ても良い映画かどうかの判断資料や感想文を提出したり校内新聞に映画批評を書いたりしていた。

私はこの映画を5・6回見た。
すっかりジャズのとりこになった。

もうグレンミラーだインザムードだと云っても知らない人が多いんだろうな。
同じ年代のJikoも知ってはいたが私程の思い入れはないようだ。
mihimaru のおかげで青春時代の一コマが鮮やかによみがえると共に何か胸のつかえがおりた。

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イジメらっれ子

  1. 2006/10/24(火) 20:26:22|
  2. ■思い出の糸をつむいで
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今 イジメが大きな社会問題になっているが・・
かく言う私もイジメられっ子だった。
 
別府の町中の西小学校から山奥の朝日小学校に転校してチビの一風変わった子の私はイジメの標的だった。
おまけに『口だけは3年前に産まれた』と言われた私は口だけは達者な小生意気な子だったのだろう。
ランドセル(兄のお下がりで今みたいにカラフルな物では無く豚皮のベージュ)を持っていたのもズックを履いていたのも私一人だった。
みんなは教科書は風呂敷包み履き物は下駄の子が数人でほとんどが藁草履だ。


朴訥で口では到底勝てない田舎の子達は徒党を組んで実力行使に出た。
“霧島クン”と言う人並み外れて体格に良い子がガキ大将だった。
出席順の関係で席が不運にも隣同士。
木製の二人一組の蓋付きの机だった。
『肥後守』で苦労して削った鉛筆を全部折られる。
(当時の鉛筆は粗悪で芯はすぐ折れるし非常にきれいに削るのは難しかった)
宿題は隠される。
帳面には落書きされる。
時には教科書も隠された。
悔しいので先生には言わなかった。

「忘れました」と堂々と言い
「霧島クン貸して・・・」
教科書を借りて読んだりもした。

学校内では後 掃除当番を押しつけられる程度だったが下校の際 4・5人がいつも山道で待ち伏せして髪を引っ張ったりこづいたりスカートをめくったりするのである。
ランドセルを後ろから引っ張って動けなくしてからイジメるのである。
ランドセルの中に石や蛙を入れられる事もしばしば・・

泣けば止めたのかも知れないが 私は絶対泣かなかった。
(泣いてなんかやるもんか)
我慢して・・・我慢して・・・
肩をひくひくさせながら 家まで帰り戸を開けると「わあ~」と泣いた。

話しを聞いた母は
「髪を引っ張られんようにしたらええ・・」
と裁ち鋏でショートベリーに切ってしまった。
父は父で
「やられたら やり返せ
「やられそうになったら 先にやれ
(どっちみち やれ ってこと)

『攻撃は最大の防御なり』

(この教訓は今だに麻雀道で生きている)

「でもな・・相手はおっきいし・男の子やし・一人やないし・・」
と訴える私に父は“ねぶち”を持たした。
根鞭(竹の根の部分で軽いが叩かれるとしなって痛い)
「ランドセルは前にせよ」
「スカートはやめろ」
「絶対 負けるな

父の檄を受けて翌日から“ねぶち”を持っての登校となる。
つんつんの頭に兄のお古の学生ズボンで・・・
早速「おとこおんな!!」「おとこおんな!!」
はやしたてられたが 痛くも痒くもない。
男の子になりたかった私には かえって嬉しい位のもんだ。

下校時になると校門のそばに隠しておいた“ねぶち”を手にランドセルをくるりと前にして悪ガキ共が現れると
思いつく限り 知ってる限りの

『悪口雑言』

『罵詈雑言』

3年前に産まれた口で持ち前の大声でこの時とばかり怒鳴り散らす。

「なにぉ
と至近距離にくればこっちのもの

『ピシリッ』 『ピシリッ』

顔と言わず手と言わず叩き付ける。
“ねぶち”は軽いので思うように操れるし しなって巻き付くのだ。
叩かれた所はみみず腫れになり相当痛い。

ランドセルは手さばきの邪魔と気づき次の日から唐草模様の風呂敷にして襷掛けにした。


かかって来い!!
カット:himi



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もしかして・・・

  1. 2007/03/10(土) 15:29:14|
  2. ■思い出の糸をつむいで
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その頃、私は“鉄輪の海地獄”周辺に住んでいた。
海地獄には千住さんの別荘があった。
海地獄のオーナーかどうかは定かではではないがみんなは
『海地獄の千住さん』と呼んでいた。
千住さんは東京在住で年に数回来ていたようだ。
千住さんのお嬢さんは私より二つか三つ上だったが、私達とは服装も言葉も違いずいぶんとおねえさんに見えた。
子供心に自分とは違う世界の人だと感じていた。
お嬢さんとたまに会う事は有っても話をした事も無かった。

テレビもない当時の東京は今のアメリカより遠い存在だった。

ある夏の夕方“海地獄”の前を通りかかると 二人のお姉さんが広場の鉄棒の前にいた。
一人は千住さんのお嬢さんだった。
うつむいていつものように黙って通り過ぎようとしたら ふいにお嬢さんが
「おひさしぶり 私の東京のご学友 ショウダミチコ さま。
こちら ご近所の方」
(そう お嬢さんは私の名前を知らない。
私も千住さんのお嬢さんとしか知らない)

とっさの事にどぎまぎしながら顔を上げた。
お相手のお友達は優しく微笑んで頷いた。
色の白いおとなしそうな綺麗なお姉さんだった。
私は戸惑いながらも何か云わなければ・・
口から出たのは ぶっきらぼうに 
「さいなら」
すると
「ごきげんよう!」
と小首を傾げてミチコさんが云った。
田舎者の私は
(はぁ~?)
と思いつつ帰った。

(東京サの人はみんなへんな名前・・
友達にもさまつけるんだ・・)
近所には東京の箙(えびら)さんの別荘もあったし千住さんも珍しかったし ショウダ さんも字が分からなかった。

お嬢さんと言葉を交わしたのは後にも先にもこれ一回である。
故に鮮烈な印象として記憶に残った。

歳月が流れ
『ショウダミチコさま』
『ショウダミチコさま』

ちまたに流れるこの名前・・・
どこかで聞いた名前だなぁ・・・!?

喫茶店のテレビでパレードの様子を見てはっと鮮明に思い出した。
(家にテレビはまだ無かった)
あの時の千住さんのお嬢さんのご学友だ。

「千住さんってお友達おられましたか?」
「別府の海地獄に遊びにいらっしゃいましたか?」

聞くすべは無い。
しかし あの日のあの方は『美智子さま』に間違い無かったと私は確信している。

美智子さま 一日も早くお元気になられますよう陰ながらお祈りしています。

ホテルで朝食を・・・

  1. 2007/03/18(日) 22:28:10|
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別府は観光地なので道を聞かれたり店を聞かれたり・・時には案内して上げたりは日常茶飯事。

当時の別府は修学旅行のメッカだったので学生時代には他校の生徒に頼まれて別府港で紙テープを引いて見送る事が良くあった。
長い棒にたくさんの紙テープを通して「螢の光」の流れる中、船は七色のテープをなびかせながら桟橋を離れる。
船便全盛の時代である。

その日 10代後半の私とMiyaちゃんは銀ブラを楽しんでいた。
(有るんですっ!別府にも銀座が・・・)
「良い喫茶店知りませんか?」
綺麗な東京弁で声を掛けられた。
二人連れの感じの良い30代の男性。

別府で一番と評判の[SWAN]に案内して紅茶とスワンのシュークリーム(当時高級品)をご馳走になった。
話している内 今夜は観海寺の『白雲山荘ホテル』に泊まると。
『白雲山荘ホテル』は市街地からちょっと離れた高台で皇族方がお泊まりになる超一流ホテルである。
「へ~ぇ!」
二人が目を丸くしていると
「明日の朝 ホテルで朝食をご一緒しませんか?」
外から眺めるだけで中には入った事も無いホテル。
二人 声を揃えて
「は~い。行きま~す」
朝食後 どこかに案内してくれって事だろうと・・

「タクシーに乗っていらっしゃい。
フロントに伝えておくから・・」

次の日の朝。
早起きして寝ぼけ顔でMiyaちゃんとタクシーで乗り付けた。
映画のシーンみたいな芝生のテラスに用意された これまた見た事もない豪華な食事。
別府湾を望みながら朝もやの中・・・
一流ホテルの緊張も忘れマナーもへったくれもなく喜々として二人はがっついた。
デザートも済んでお茶を飲みながら
「どこにご案内しましょうか?」
(てっきり地獄めぐりか城島高原でも案内するものだと思いこんでいた)
と云うと
「僕達 もう今日帰るんですよ」
と タクシーを呼んでくれた。

ホテルから出てタクシーにのるとこをMiyaちゃんのあねさまの知人が見ていたらしい。

帰るとあねさまに呼びつけられた。
(このあねさま生涯独身と思っていたら昨年喜寿で結婚し 今、新婚生活をしている)
「ちょっと ここにすわんない」
あねさまの前に二人は正座。
事情を話すと
「あんたら 馬鹿じゃねぇ!
大人がよ 朝ご飯 一緒にち云うのは夜を共に過ごして・・と云う意味よ。
ほんで ご飯だけ食べに行ったと?」
「うん。うん」
頷く二人。
「相手の人・・なんか云うたろうもん」
ううん~首を横に振る。
「呆れてものも云えんかったんじゃろう」
「今後いっさい、ひょこひょこホテルに行く事はならんよ」
「ハイッ!」

『ただ純粋に うちらに豪華なホテルでの朝食をご馳走したかっただけの奇特な人達だった?』・・と どこまでも天然の二人だった。

その後 何十年もしてから
「夜明けのコーヒーを二人で・・・」
と云う言葉が流行ったのだ。






頭の中の消しゴム

  1. 2007/04/01(日) 22:57:44|
  2. ■思い出の糸をつむいで
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私の頭の中の消しゴムが消してしまわない内に書いておきたい事がある。
それは断片的な幼い時の記憶。

雨と蛙
雨が降っていて外で遊べない日。
多分6才上の兄が作って呉れたであろうちぃさな木の枝に糸をつけて脱脂綿を括り付け窓から蛙を釣っている光景 。

サーカス
松原公園に花火見物に行った帰りにサーカスを見た。
その頃、親の脅し文句は
「悪い事をするとサーカスに売る」
「云う事をきかない子はサーカスに売る」

サーカスの魅力に取りつかれた私はお気に入りの一張羅だったオレンジの濃淡に萩とコオロギの柄のモスの着物を風呂敷に包み悪態の限りを尽くし
「早くサーカスに売ってくれ~」
と玄関に座り込んで泣き喚いている光景。

盆栽
隣のおじいちゃんが大事に育てていた盆栽の梅の実を取ってパクリッ!!
おばちゃんが
「食べた?」
「ううん!!」
目を白黒させながら首を振った。
「あ~ぁ良かった・・・この梅の実は食べたらおへそから木が生えるんよ」

急いで家に帰りおへそを見ながら
ーどうぞ木がはえませんようにー
神様にお願いした。
それからおばちゃんは顔を見ると聞く。
「まだ生えないか?・花は咲かないか?・・」
その都度おへそを押さえ家に帰って不安におののいていた光景。

人殺し
大急ぎでトイレに駆け込んで転び便器でおでこを切った。
病院に連れて行かれて三針縫った。
その間中泣いて暴れて
「ひとごろし~ぃ!」
「ひとごろし~ぃ!」

みんなに押さえられながら
「ひとごろし~ぃ!」
「ひとごろし~ぃ!」

バタバタ必至で泣き喚く。
先生に
 人殺しじゃない人助けじゃ~ 
叱られて涙目で先生の顔を精一杯睨んでいる光景。

遠い遠い遙かな記憶のカケラ。

それ以前の記憶は無いが何でもお隣さんには相当迷惑をかけていたらしい。
まな板の上に座っておもらししたり・・
知らない間に二階に上がり窓から飛び降りたり(転げ落ちた?)・・
これらは・・一切記憶にございません!!

桜舞う

  1. 2007/04/05(木) 23:38:37|
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 桜舞う 今日の佳き日にまなびやと
             友と別れていつ又逢はむ 


と書き残して山の中学を卒業した。
その頃 サイン帳にお別れの言葉を一言かいて友達同士で交換するのが流行っていた。

私と短歌との出会いはこの山の中学校に小田先生と云う国語の先生が赴任して来られてからだ。

あかねさす紫野行き標野行き
      野守は見ずや 君が袖振る


額田王のこの和歌に触発されたと同時に小田先生が短歌を詠まれることから短歌への興味を持った。
小田先生とはその後も何くれとご教授頂き今年米寿を迎えられ耳が少し御不自由ながらご健在である。
今も歌が出来ると送って読んで頂く。

昨年 お薦めしてPCを始められた。
ーやっとはがきの裏は書けるようになったー
とはしっこに文字の寄ったはがきが来た。

高校時代には別府在住の女流歌人(八雲主宰)『田吹繁子先生』に師事。
この歌が掲載された。
女流歌人のイメージからは程遠く“野村昭子”と“あき竹城”を足して上からぎゅと押さえたような見た目でさっぱりした男らしい?ある意味豪傑であった。
女流歌人とは縁のなさそうな豪放磊落な性格だった。
ご主人は鶴のように痩せて背の高い優しい方で影のように食事を作ったり掃除をしたりしていた。
先生はそれこそ足の踏み場もないような書斎に講演や歌会に外出する以外はこもりっきりで執筆していた。
家にいても食事以外は部屋から出てこない。

冬休み・夏休みには住み込んで身のまわりのお世話をしながら短歌の勉強をした。
ものを見る目・感じる心皆それぞれ違う。
既成概念に捕らわれるな!
自分の思ったまま・感じたままを詠め!
自分の気持ちに嘘をつくな!
良く云われた言葉だった。

家事全般不得意な先生だったが、この先生、何故かマヨネーズにだけはこだわった。
手作りマヨネーズしか食べず毎食のように作らされた。
手を抜くと分離するので必死で撹拌したのも今では懐かしい思い出だ。


この先生の銅像が今も野口公園の一角に建っている。


秋桜

  1. 2007/09/04(火) 20:21:55|
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残暑厳しいなか北の涼風が

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水無月さまから送られて来ました。

娘がテンプレに“秋桜”を咲かせてくれたのと後先して・・

20数年前、娘の結婚式で♪秋桜♪
涙ぐみながらユカちゃんとトモちゃんが歌ってくれた歌。
♪秋桜♪は私に強烈な印象を残した。
今でもこのメロディを聞くと私達の手元を離れBossに娘を託した日のことが昨日のように思い出される。

Tochiが高3の秋、スカイフィールド富郷でラグビーの試合があり、まだナビの付いてない車で後を追っかけるのに テルヤ
「高速降りてすぐ左折・・・」
「赤い橋渡る・・・」
「一車線のトンネル通過・・・」
と要所要所メールで誘導してくれ法皇山脈を細いトンネルでくぐり抜け金砂湖畔・ダムの湖畔をはうように延々山道だったが
無事、試合会場に着いた。
帰途、翠波高原で見渡すかぎり壮大な秋桜を見た。

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そう!あれは・・・
もう何十年も前のこと。
市民を二分しての未曾有の市長選が有った。

決起大会で私は飛び入りで応援演説をぶった。
場内から「サクラ?」「サクラ?」
と突っ込みが・・・
私は、完全なサクラではなくビミョウな立場だったので
「私は春に咲く桜ではありません。
秋に咲くサクラ秋桜です」
と煙に巻いて壇上を降りた。

相手候補はサルビアをシンボルにしていたので私達の陣営はそれ以来“コスモス市政”実現のためをキャッチフレーズに闘った。

若かった! 
  
熱かった!

『我が胸の 燃ゆる思いにくらぶれば煙は薄し 桜島山』
平野国臣の心情さながら 生涯一度の選挙運動だった。

“秋桜”は私にとって思い入れの深い花である。

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秘境・椎葉

  1. 2011/07/08(金) 00:10:48|
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リンちゃんの、お山の学校訪問も三度目。
昔話をするのだが、「井戸」「蚊帳」知らない!わからない!
「おばあさんは、川で洗濯・・・」
「洗濯機は?」

先日行った時には、学校を出て車に乗るまでに、藪蚊に5・6ヶ所刺された。

この、お山の学校で思い出したのが・・・
もうかれこれ、30数年前、Miyaちゃんの弟が、校長先生になって、初めて赴任した椎葉の小学校。
椎葉は九州山地の山奥。
秘境である。
こんな事でもなければ、わざわざ行く所でもないので、良い機会だから、訪ねてみようと言うことになり、あね様とMiyaちゃんとチエ子さん(弟の嫁)四人で単身赴任先の椎葉にチエ子さんの運転で向かった。
高鍋を早朝に、出発したのだが、カーナビがあるわけでもなく、当然、携帯もない。
地図をたよりに、今ほど道路事情も良くない山道、行けども行けども、昼なお暗い山また山。
道を聞こうにも、人家もなければ、当然、人にも出会わない。
平家の落人集落とは、聞いてはいたが、こんな山奥まで、壇ノ浦から、よくぞ逃げたものだと、感心しながら、がたがた道を走りに走った。
ダムが出来るまでは、車も行けなかったとか―
集落の人家も、如何にも隠れ里らしく、山中に、一軒、二軒と鬱蒼と茂った樹々に囲まれて建っている。

途中、倒木が道をふさいでいて、バックを余儀なくされ、けもの道に毛の生えた程度の山道に迷い込んだりして
、クロスカントリーのカーレースもかくやのごとき、山道を辿り、やっとの思いで、村立椎葉小学校に着いたのは午後3時。
確かに、秘境!
ここを秘境と言わずして―と実感したのは、郵便局が無かったのだ。
私は、旅行に行く時は、郵便局のキャシュカードを何時も持参する。
今ほど、ATMも普及していない時代ではあったが、日本全国、どこにいっても郵便局はある―それが私の認識だった。
ところが、20キロ下った集落まで行かないと、郵便局は無いと言う。
所持金に不安があったのだが、あの山道を20キロ!
聞いただけで、諦めたが、その後、椎葉の話をするたびに、
「郵便局さえ無い所」と。

村の人々には、
「校長先生サマのお身内が来た」と大いに歓待を受けた。
確か、国の重要文化財だったと思うが
000008049.jpg

この『鶴富姫屋敷』で山菜の夕食をご馳走になった。
「山くじら」なるものも、頂いたが、後でイノシシと知った。
蒟蒻の刺身の美味しかったこと。

imagesCAO1TINO.jpg

次の日、周辺を案内してもらったが、我が国初のアーチ式ダム。
上椎葉ダム

siiba05.jpg

昼間に、もう一度、ゆっくり「鶴富姫屋敷」
平家の残党鶴富姫と、源氏の那須大八郎(那須の与一の弟)の悲恋に涙する前に、この、山奥まで逃げた方も逃げた方だが、それをまた追っかけて来た方も凄い―と再度、感心する。

♪稗つき節♪
庭の山しゅうの木 なる鈴かけて
鈴の鳴るときゃ 出ておじゃれよ

鈴の鳴るときゃ 何と言うて出ましょ
駒(うま)に水くりょと 言うて出ましょ

おまえ平家の公達のながれ
おどま追討の那須の末

那須の大八 鶴富置いて
椎葉たつときゃ 目に涙

泣いて待つより 野に出て見やれ
野には野菊の 花盛り

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『八村杉』
那須大八郎、手植えの杉。
これで、後はなぁんにもない!
何か記念になる物を・・・川で小石をひろった私たち。
お土産代が・・・との心配は杞憂に終わった。
買うものがなんにも無かったのである。

産物といえば、村にただ一軒ある豆腐屋の豆腐だと言う。
豆腐では八幡浜に持って帰る訳にもいかず、この豆腐屋で売っていた、山牛蒡を蒟蒻で巻いた「鉄砲漬け」?を買う。
これは美味しかった。

その後、似たようなものを、見つけて買ってはみたが、椎葉のそれとは微妙に違っていた。

帰りには、このお豆腐屋さんがお豆腐をたくさん、お土産にくれて、高鍋に帰り、隣近所にくばったものだ。

こんな、懐かしいことを思い出さしてくれた「お山の学校」である。



外座夜泣子

  1. 2011/10/10(月) 13:30:52|
  2. ■思い出の糸をつむいで
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私がちぃさい時、(戦中・戦後)子供の読む本は無かった。
我が家に無かっただけかもしれないが―
いつも父の本棚に並んでいる、明治大正文学全集を眺めていた。
夏目漱石・芥川龍之介・泉鏡花・小泉八雲などは、読んでいた。
文学の機微は理解出来ないままにも、活字を拾っていた。
一番好きなのは、森鴎外の『山椒太夫』。
「安寿恋しや、ほうやれほ。厨子王恋しや、ほうやれほ」幾度も読んでは涙した。
「人買い」や「人攫い」と言う言葉が、普通に使われていて、実際にあり得ると思えたからかもしれない。
幼い時の、親の脅し文句は「サーカスに売る」だった。
それ以外は、子供ながらに絵空事と理解していたのかもしれない。
絵空事とはいえ、蜘蛛の糸をのぼったり、猫に話をさせたり、意に染まぬ人物を動物にしてしまったりなんでも出来る小説家に私もなりたいと思った。

それにしても、島崎藤村・田山花袋・徳富蘆花・樋口一葉
「みんな変な名前、なんで××男とか××子とか無いの?」
同級生たちの名前は、チエ子・フミ子・アキエなどカタカナ名前が半数いた。
さすがにカタカナ二文字はいなかったが・・・
兄に聞くと小説家は本名ではなく筆名で二葉亭四迷は親に「くたばってしまえ」と言われたからとか、江戸川乱歩は外国の小説家エドガ・アラン・ポーを漢字にしたと教えてくれた。

「じゃうちが小説家になったら、筆名は自分で好きにつけられるんやな!うちは外座夜泣子や!」

当時の私は、泣き虫だった。
それも、ありきたりの泣き虫ではなく、ヘラクレス級の泣き虫だった。
兄が睨んだと言っては泣き、かまってくれないと言っては泣き、少しでも自分の気に入らぬ事があれば泣く。
それもメェメェ・ピーピー泣くのではない。
わぁ~わぁ~・ぎゃぁぎゃぁ 泣く理由を怒鳴りながら、泣きわめくのである。
体はちぃさく細く色が真っ黒で、痩せ地の牛蒡に大きな目と口を付けたような、お義理にも可愛い子ではなかった。
水木しげるが見たら、どんな妖怪にしたてただろう!
特に夜泣き?夕食後はいつも泣いていたように思う。
松林の中の一軒家、ご近所に迷惑をかけることは無かったが、うるさくて辟易した母に良く家の外につまみだされた。
真っ暗な戸外に出された私は、座り込み闇に吠える松風に負けじと声をかき消されないよう、ひと際大声を張り上げて泣き叫ぶのである。
涙は枯れても声は嗄れることなく、この時の鍛練が功を奏したか、いまだに大声には自信があるし、多少の音読で声が嗄れることはない。
そこで泣きながら
「やっぱりうちは外座夜泣子や!」

今にして思えば、あれは寝くじ?!だったのだろうか・・・

そんな手に負えない泣き虫の私も一歩外に出ると、泣き声はおろか涙の一しずくもこぼさない「外弁慶」であった。

『外座夜泣子』 は実現することなく終わったが、丈夫な声帯だけは健在である。



成人して後日、大泉の東映撮影所で「安寿と厨子王丸」アニメーションの吹き替え現場を、見学する機会に恵まれた。
安寿は佐久間良子・厨子王は北大路欣也だった。







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